孤独を癒やす大樹とナイフ:小説とエッセイに込めた想い

一言サマリー
小説とエッセイというふたつの創作形式に込めた、孤独を感じる人への異なるアプローチについて
要点まとめ
- 内面世界が孤独に陥っているときは、大きな岩に押しつぶされ身動きが取れない状態
- 小説は「大樹」のイメージ=岩を取り除く癒やしの効果を狙う
- エッセイは「ナイフ」のイメージ=具体的な一歩を踏み出すための道具
- 孤独な人が歩き出すには順番がある:まず岩を取り除き、その後に行動する必要がある
- 両方のコンテンツを提供するために小説モードとエッセイモードを切り替えて創作している
私は小説とエッセイを公開していますが、小説には大樹のような、エッセイにはナイフのようなまったく違ったイメージを持っています。
小説とエッセイ、どちらも内面世界で孤独を感じてしまった人に届いてほしいと思っています。それは私自身が孤独を感じたとき、言葉で救われたことが多かったからです。
自分自身の経験を振り返ると、孤独を感じているときの内面世界は、まるで岩に押しつぶされて身動きがとれないような状態でした。
そのせいで、だれともつながりを感じられない。
そこから新しい一歩を踏み出すには、順番があると思っています。
まず、その大きな岩を体からどかしてあげる。その後に歩き出す方法を身につけていく。
小説とエッセイで、それぞれの役割を担ったものを表現したい。だからこそ先ほど書いたイメージが浮かぶのです。
目次
小説が持つ大樹の役割
小説には岩を取り除き、押しつぶされた心を癒やす効果があると思っています。
なぜなら登場人物に感情を重ね合わせられるからです。
登場人物と心を通わせることで、つながりを感じることができる。
これは小説が主観的に没頭できるコンテンツだから生まれる効果だと思っています。
また小説にはさまざまな立場のキャラクターが登場します。
いろいろな人間がそれぞれの想いで行動するからこそ、物語には多面的な奥行きが生まれるように感じます。
このような多面性を持つ小説は、個人が書いたエッセイと比べて、より多くの人を受け入れてくれる包容力があるんじゃないでしょうか。
このような考えから小説に対しては大樹のようなイメージを持っています。
その根本にゆっくりと腰を下ろして心を癒やし、のしかかる岩をそっと取り除く。
そんな役割を持つことを期待しています。
一方で大樹だからこそ、小説には圧倒させてしまうという側面もあります。
岩に押しつぶされた状態のときは、ちょっとした余裕すら持てないことが多いです。
そんなときに小説を読むという行為はハードルが高い。
それは大樹だからこそ起きてしまう問題だと思うんです。
そこで技術を使って、そのハードルを下げようと模索しています。
たとえば私の小説は、スマホ一台あれば、無料で手軽に読めるようにしています。
アカウントを作ったり、買いに行ったりしないと読めないというのは手間が増えてしまうからです。
ほかにも個人サイトでは総ルビ表示にしたり、機械音声でコンテンツが聞けるようにしたりしています。
それも少しでも負担の少ない読書体験につながってほしいからです。
小説は没頭感や包容力という魅力がある反面、読むことの負担は大きい。
だからこそ技術を使って負担を減らせば、より大樹の元で心を休めやすいと思っています。
エッセイが持つナイフの役割
一方、エッセイでは具体的な「次の一歩」を踏み出すための考えをまとめています。
現実世界の孤独な環境から、どうやって歩みを進めていくか。
その助けになるようなものを載せたいと思っています。
エッセイで意識しているのは、ひとつのエッセイには、ひとつのメッセージという構成です。
その方が伝えたいことは明確になり、具体的な行動にもつなげやすくなります。
ただ、ひとつのメッセージに絞るということは、どうしても一面的なものの見方になりやすい。
本来は多面的である事柄を削ぎ落として表現しないと冗長になってしまうからです。
さらに実際に行動するためのメッセージというものは負担が大きいです。
行動しなきゃと焦ってしまうこともあるし、実際に行動をすると傷ついてしまうこともある。
だからこそ自分のエッセイに対してはナイフのようなイメージを持っています。
なるべく研ぎ澄まして書くことを心がけ、読んだ人が実際に何かを感じ、行動につながるようなものにしています。
しかしナイフはとても便利な道具であると同時に、使い方を間違えると怪我をしてしまう危険性もはらんでいます。
だからこそ取り扱いには注意が必要です。
エッセイというナイフを使って、現実世界を切り開いていくのは、先に岩を取り除いてからだと思っています。
もし岩に押しつぶされた状態で動き出そうとしても、心がちぎれてしまいます。
余裕が生まれていないのに一歩踏み出すことを勧める文章を読んでも、焦って逆効果になってしまうかもしれません。
そのためエッセイは小説とは反対にペイウォールを設けて、気軽に読めないようにしているものもあります。
もちろん書いたエッセイ自体に価値があると自負していますし、今後の創作活動を続けていくための資金源にする目的もあります。
ただ、それ以上に私のエッセイは「心の余裕がないときに読むとしんどい気持ちにさせてしまうかもしれない」という懸念を持っています。
「このエッセイを読んでみたい」と、心に余裕が生まれたときに手に取れるようにしたい。そのためにそこで課金制という形を選択しています。
今は宣伝のために、一部のエッセイだけを有料にしています。
でも将来的には、たとえば次のエッセイ集が完成したときなどには、現在無料で公開しているエッセイも有料のマガジンに移行したいと考えています。
それくらいエッセイなどの個人の言葉は、人を助けるだけでなく傷つけるリスクがあると考えています。
おわりに
表現の仕方によって、同じ言葉の集まりでもイメージが変わります。
不思議なもので創作するときも、小説とエッセイでは使う頭のエンジンが違います。
そのため創作をするときは、小説モードとエッセイモードといった形で切り替えています。
小説を一作書いていく内に、エッセイで書きたいことが溜まってきます。
そして小説を完成させたら、エッセイモードに切り替えて一気に書き溜めています。
今回がエッセイモードで書き溜めた最後の文章になります。
この文章自体は昨年の秋、2024年の10月に書いたものです。
そこからは小説モードになり、ひたすら小説を書いています。
現状でもエッセイで書きたいことはいくつもあるので、作品が完成したらまたエッセイモードに切り替える予定です。
これを投稿した6月はじめの時点では、プロットは完成していて初稿が1/4程度書けています。
テーマとしては、登場人物が深い孤独を感じながらも、そこから少しずつ前を向いていくようなものにする予定です。
まだまだ小説モードが続くので、しばらく新しいエッセイの更新は途絶えることになります。
すでに公開しているエッセイに要約を付け足したりと、修正したいことはいくつかあります。
しばらくはそのようなバージョンアップ的な更新が続くと思います。
これからも、孤独を感じている人に少しでも寄り添えるようなコンテンツを作り続けたいと思っています。
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