感情に振り回されないようにするには?:理性的になるために「創作」する

一言サマリー:理性的でいるには感情を抑えるのではなく、あふれた感情を入れる箱を「創作」によって作ることで達成できるのではないだろうか。
要点まとめ
- 感情的になると苦労することが多いため、人は感情を抑える傾向があるが、それは根本的な解決にならない
- 感情はエネルギーのようなもので、適切に収める「箱」が必要
- 創作は自分の感情を収める新しい箱になりうるのではないだろうか
- 創作によって箱を作ることで、感情に振り回されず、かつ感情を大切にできる可能性がある
私はよく「どうすれば感情的にならず、理性的になれるだろう?」ということを考えます。
なぜなら感情に振り回されると、心身ともにつらくなるからです。
そんなことを考え続けていると、あるとき「感情を無理に抑えつけるのではなく、感情があふれたときに収める箱が必要なんじゃないか?」という考えが浮かびました。
そして、そのあふれ出た感情を受けいれる箱として「創作」が活かせるのではないか。
今回は、この考えについて書いていきたいと思います。
目次
「感情的」とは
まずは「感情的」という言葉について考えてみたいと思います。
この「感情的」という言葉には、どこかネガティブなイメージがついていませんか?
人から「感情的になっている」と言われたら、責められているように感じるんじゃないでしょうか。
ただ「感情」という言葉には悪いイメージはありません。
喜怒哀楽、さまざまな感情はわたしたちにとって大切なものです。
それなのに「感情的」であることは問題視されます。
デジタル大辞泉で調べてみると、感情的という言葉は「理性を失って感情をむきだしにするさま」と定義されています。
つまり感情自体は悪くないが、場にそぐわない感情は嫌がられるということなのでしょう。
たとえば議論の場であれば、怒りを感じたとしてもむき出しにしてしまうのは、場にそぐわない。
悲しみを感じても「泣くな」としかられる時代がありました。
これも悲しみという感情は悪くないが、それを表出することは場にそぐわないということです。
状況や時代によって変化はあるものの、場にそぐわない感情を表に出すと「感情的」と呼ばれる。
だから「感情的」という言葉には悪いイメージがあるのでしょう。
理性的とは感情を箱に収めること
次に感情的の対義語である「理性的」について考えてみたいと思います。
これは感情が「理性」という箱の中に収められて表に出ていないというイメージです。
箱の中に収められている限り、感情は否定されません。
さきほどの例でも怒りや悲しみを表に出さない人なら「理性的」と評されるでしょう。
では、なぜ感情が理性という箱の中に収められるのがよしとされるのでしょうか?
それは感情自体には人を振り回すエネルギーがあるからです。
ポジティブ・ネガティブにしろ感情が箱からあふれ出ると振り回されてしまいます。
ネガティブな感情であれば、そのことに捕らわれたり傷ついたりします。
ポジティブな感情であれば、浮ついたり有頂天になったりします。
感情に振り回されて苦労や失敗するエピソードは、古今東西、数多く存在します。
だからこそ感情を箱の中に留めること、理性的であることが美徳とされやすいのでしょう。
感情があふれても許されるとき
しかしときには、感情があふれ出しても許容されるときがあります。
それは相手に感情を受けとめてもらう場合です。
あふれ出た感情を、他の人の箱の中に収めてもらう。そうすることで生のまま放り出された感情は存在しなくなります。
つらいことや、うれしいことがあったとき、人は話して受けとめてもらいたくなります。
生の感情は自分や他人を振り回すため、箱の中に収めたいという欲求があります。
しかし自分の箱だけでは収めきれない。そんなとき人は自分の感情を他者の箱の中に収めてもらうことがあります。
こんなときは感情があふれていても、その人が感情的になっているとは呼ばれません。
なぜなら受けとめてくれる人がいて、場にそぐわない生の感情は存在しないからです。
もし感情を受けとめてもらえなかったら
では、もし他者に受けとめてもらえなかったらどうなるでしょう。
相手の箱に感情を受けとめるほどのスペースが残っていない場合や、相手が理解できなくて感情を受け取ることを拒否された場合などです。
そんなときは以下の順序をたどっていくと思われます。
- あふれ出た感情によって振り回される
- なんとかあふれ出ないように箱の中へ収めようとする
- 箱が壊れて感情がとめどなくあふれる
- 感情自体が生まれないようにする
まず他者に受けとめてもらえないと、あふれ出た感情の受けいれ先がなくなり自分自身が振り回されます。
そんな状態はつらいため、なんとか感情を箱の中に収めようとします。
いわゆる感情を抑えたりコントロールしようとしたりする状態です。
ちょっとした感情なら、この段階で落ち着く場合もあります。
しかし強い感情や、継続的に生まれ続ける感情の場合は限界があります。
なんとか蓋をして箱の中に収めようとしても、どんどん圧力が高まり、いつの日か箱は壊れてしまいます。
すると今まで溜め込んできた感情が一気にあふれ出します。我慢に我慢を重ね、最後に決壊するのです。
この状態では多くの人が、その人を「感情的になっている」と認識します。
感情を収める理性という箱はこわれてしまい「理性を失って感情をむきだしにする」状態になっているからです。
一気にあふれ出した感情は自分だけでなく他の人も振り回すため、よりつらくなります。
だから、そのような経験を繰り返すと、ときには感情自体が生まれないようにしてしまう人がいます。
感情はガソリンのようなものです。収めておかないと危険ですが、原動力にもなります。
そのため、もし感情自体が生まれないと気力すら失われてしまいます。
箱に収められるかは運次第
理性的か感情的かの違いは、感情を収める箱があるかどうかです。
どんなに理性的に見える人でも、自分の箱のキャパを超えた感情があれば感情的になってしまいます。
そして感情を箱に収められるかは環境次第です。
どれくらいの感情が生み出されるか。自分の箱の余剰はどれくらいなのか。
あふれた感情を受けいれてくれる他者がどれだけいるか。
これはそのときの環境によって大きく変わります。
つまり感情を箱の中に収められるかは、運次第とも言えます。
創作によって新しく箱を作る
理性的でいられるか、感情的になってしまうかは運次第。
そうなると感情を箱の中に収め続けるのは無理なんじゃないか。
思考を深めていると、一旦はそのような結論に陥りました。
「でも、なにか方法はあるのではないか」、そうやって考える日が続いていました。
ある日、「最高の脳で働く方法」という本を読んでいるときにヒントを得ました。
解決法が見つかったというよりは、感情を箱に収める方法は既にあったじゃないかと認識を改めたのです。
それが冒頭に書いた「創作」という行為です。
もともと創作とは作者の感情が込められやすいものです。
それはつまり感情を入れる箱を新しく増やす行為なのではないでしょうか。
自分で箱を作り、あふれ出る感情を収める。
この方法ならコストはかかりますが、自力でできるため運による影響をだいぶ減らせます。
「最高の脳の働き方」という本は、認知や脳のメカニズムの知見をまとめている本です。
その中で感情についてまとめた章があります。
感情に振り回されると仕事がうまくいかないという文脈で、どう対処するかについてまとめられています。
参考になった部分はそのまま引用したいと思います。
自分の感情を口にすると、感情をさらに悪化させるという誤った予測によって、ビジネスパーソンをはじめ多くの人々が、自分の感情を語らずにいる。これは人間性に関する誤った思い込みから残念な習慣が身に付いてしまった例だ。
だが、私たちは人間性に対する辛辣な見方を改めた方がいい。情動経験について話すことが情動を表面化させることを、多くの研究が明らかにしている。重要なのはその方法だ。
興奮を和らげるには、情動を少ない言葉で言い表す必要がある。理想を言えば、象徴的な表現を使う方がいい。間接的な比喩、指標、情動経験を単純化した言葉などだ。
言葉で表すには前頭前皮質を活性化する必要があり、それによって大脳辺縁系の興奮が和らぐ。ここで肝心なのは、少ない言葉で表せば情動を抑える効果があるが、情動について会話を始めると逆に情動を強める傾向があるということだ。
デイビッド・ロック著 「最高の脳で働く方法」 p222より
要約すると感情は抑えるより表現した方が興奮を抑えられ理性的になれる。そのときになるべく象徴的に表すといいということです。
この象徴的な感情表現には、創作が当てはまるのではないでしょうか。
創作物には作者の感情が入り込みます。しかし創作物と自分の間には距離が生まれます。
すべての感情を入れ込むことはできないし、当時の感情がそのまま表れるわけでもありません。
これは象徴的な感情表現と言えるのではないでしょうか。
自分は小説を書いているので例として挙げてみたいと思います。
さまざまな登場人物の感情の多くは自分の感情から由来しています。しかし自分の感情をそのまま表しているわけではありません。
あるシーンで登場人物の怒りを表現したいとします。当然、登場人物と同じ性格ではないし同じ経験もしていません。
そんなときは自分が感じた怒りの感情だけを利用します。
過去に感じた怒りをあふれ出させ登場人物に入れ込む。
すると登場人物が動き出します。キャラクター設定やシチュエーションは異なっているため、当時の自分とは違う行動になります。ただ感情自体を利用するだけなのです。
このように創作は、あふれ出た感情を収める箱になってくれるのではないでしょうか。
話をして他の人の箱に感情を収めるには、受けいれてくれる人が必要です。
それに相手に受けいれてもらえる範囲でしか感情は出せません。
またさきほどの引用には、直接感情を表現するとヒートアップするリスクも指摘されています。
話していく内に当時の感情がありありと思い出され、止まらなくなるという経験は誰しもあると思います。
しかし創作という箱であれば箱の大きさは自由自在です。そして、さまざまな量の感情を距離が置いた状態で収められます。
創作によって新しく箱を作る行為こそが、安定して理性的になれる道なのではないかと思うのです。
創作によって感情を収められる世界
自分は小説しか書いたことがありませんが、おそらく他の創作にも同じ要素があるのではないでしょうか。
というより、そもそも創作はあふれ出した感情をなんとかするために行われてきたのだろうと思います。
ただ私はこのような自然発生的に行われる創作だけだともったいないと思うんです。
創作は「感情を収める箱を新しく作る方法」として、多くの人が身につけてもいいスキルなのではないでしょうか。
いつなんどき自分の感情があふれるかはわかりません。
そんなときに受けとめてくれる人がいるかもわからないし、そもそも他の人に渡せる感情ではないかもしれません。
それならば創作を普段から行うことで、感情をあふれさせて収めることに慣れておいてもいいのではないでしょうか。
もちろん創作を生業にする必要はありません。
自分の時間の一部を創作に充てるだけでも、箱に収めるスキルは磨かれていきます。
それが保険のようになり、急に感情があふれ出たとしても自分で受けとめられるようになると思うんです。
また感情を抑えることで無理やり理性的になるより、箱を新しく作る形で理性的になる方が他者の感情を受けいれる余剰が生まれやすいのではないでしょうか。
そうすれば感情があふれやすい人も周囲に頼りやすくなり、より許容される世界になっていく気がしています。
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