第二話 神楽を舞う
忌子は目を覚ますと布団から出て立ち上がる。机の上の時計を見ると五時を過ぎた頃だった。机の奥にあるカーテンを開くと、窓から見える空は雲ひとつなく青みがかっていた。天気予報でも確認していたが祭りの当日の天気が問題なさそうでほっとする。
布団を押入れにしまったら階下へ降り、目の前の扉を開けて脱衣所に入った。寝間着を脱ぎ浴室に入り蛇口をひねる。シャワーから出る冷たい水を浴びることで目が一気に覚めた。これから神社で祭りの準備に向かう忌子にとっては、ここからすでに祭りが始まっているようなものだ。
一時間かけて体をきれいにして浴室を出る。腰まで伸びた黒髪を乾かすには時間がかかる。だからこそ早起きする必要があった。丁寧に髪を乾かしたら、そのまま巫女装束へと着替える。
脱衣所を出て右手に進み居間に続く扉を開けた。
まずは東向きに置かれた神棚にある木製のお盆を回収する。これは折敷というもので、その上には塩やお米が盛られた白皿や、水の入った壺型の白磁器が乗せられている。それぞれ平瓮と水器といって神様にお供えをする際の容器だ。米、塩、水をそれぞれ新しいものに交換して神棚に供える。
その後に台所で昨日のうちに用意しておいたおにぎりを冷蔵庫から取り出して軽くあたためてから食べる。祭りのときは少し空腹気味の方が神楽にも集中できると思い、いつもあまり食べないようにしていた。
朝食を軽くとったら食卓の上に置いてある銀色のシートを手に取る。シートには二十八個の錠剤が四列に七個ずつ詰められていて、一列目はすでに空になっていた。二週目とかかれた一番左端の錠剤をシートから押し出しあらかじめ用意しておいた水で流し込む。
これで準備はできた。廊下に出て、そのまま正面にある玄関から外に出た。
外に出ると太陽の光が降り注いでくる。夏の早い時間、祭りの準備をするために触れるこの時間が結構好きだ。七月に入ったばかりのこの時期、昼間は汗ばむくらいに上がる気温も、夜の間にだいぶ和らげてくれる。夏の暑い日差しを感じさせる太陽が、まだ心地よく感じる時間。そんな一瞬の時間を忌子は気にいっていた。
この時間には散歩やランニングしている人とすれ違うこともある。地元の人ならあまり驚かれることもないが、観光客と出会うとこんな街中に巫女姿の人が歩いているのを見てぎょっとされることもある。
しかし今日は誰ともすれ違うことはなかった。神社へと続く龍神川へたどり着く。この地域は龍神様を祀っているため、この川だけでなく神社や橋にも龍という名が冠せられている。
龍神橋は車道が二車線と、両端に歩道が敷かれている街中で見かけるよくある橋だ。特徴的なのは橋を渡ったところにある大きな榊だ。六メートルほどの高さの木が橋に影を落としている。神様がいる場所として、この橋と神社に榊が植えられたそうだ。
橋の真ん中で川を眺めて一礼する。もともと龍神様はこの川にいる神様だと子どもの頃から言われていた忌子は橋を渡るときにお辞儀する習慣がついていた。
川幅は四十メートルほどあるため橋の真ん中で川を眺めると街中と違って景色が少し広くなる。東西に向かって流れるこの川では朝と夕方、陽の光を一身に浴びれた。透明度の高い川の流れに光が反射する。ここに立っているだけで自分の身も心も浄化される気持ちになるため、いつもしばらく陽の光を浴びるようにしていた。
橋を渡るとすぐに龍奉神社が見えてくる。朱塗りの鳥居の前で一礼してからくぐり、すぐ脇にある手水舎で丁寧に手と口をすすぎ清めた。まずは父親である清司が住んでいる社務所へと足を伸ばす。参道の脇に置かれた参拝方法が事細かに書かれた看板を横目に社務所へと向かった。ごみひとつ落ちていない境内はやはり気分がいい。
しばらく境内を進むと左手に木造の社務所が見えてくる。二階建ての社務所は、一階部分は寄り合い所があったり社頭の部分は授与所になっているため神社に関する場所となっていた。そして二階部分を居住場所として利用している。
社務所の扉を開き、中へと入る。するとちょうど清司が出てくるところだった。
「父様。おはようございます」
「朝の祈祷が終わったら、市長たちの応対をする。祭りの準備は他の者たちに任せているから忌子は神楽に専念しなさい」
「わかりました」
頭を下げて清司を見送る。龍奉神社の祭りでは神楽が奉納される。その歴史は長く重要無形民俗文化財に指定されているため市長や知事が顔を出すこともあった。テレビで見るような三大祭の規模と比べたら小さい。しかしケーブルテレビや観光協会のホームページで宣伝されることもあるからか、外国人観光客なども来る。そのため神楽の時間には結構なにぎわいを見せることが多い。
忌子は清司から少し距離を取りながら後ろをついていった。社務所の三十メートル先に今日神楽を舞うための舞殿がある。十五メートル四方の木造の舞台で、四隅に柱が立ち入母屋造の屋根が乗っている。壁はなく吹き放ちとなっているが、そのおかげでどこからでも舞殿の神楽を見られるようになっていた。
鳥居と舞殿は直線上に並んでいて舞殿の奥に拝殿と本殿がある。御神体がある本殿は一番奥まったところにあった。一般的には拝殿と本殿は別々に建てられるところも多い。
しかし龍奉神社は本殿と参拝のための拝殿が一緒になっているためかなり大きい建物となっている。流造の建物は神社の形式としては最も一般的ではあるが、本殿と拝殿がひとつの建物になっているものは少ない。
本殿へと入り清司は御神体への祈祷のため内陣へと入っていった。忌子はその手前の外陣に留まり一礼する。本殿は神職のものしか入らず、静謐な空間となっている。いつも本殿に入ると身が引き締まるとともに、心が落ち着くのを感じられるためこの空間が好きだった。忌子はここで神楽を舞い時間になるまで動きを確認した。
日が上り、本殿の中の気温も上がってきた頃、祭りのにぎわいがだいぶここまで届くようになってくる。忌子は本殿を出て舞殿へと向かう。本殿を抜けて拝殿から外へ出ると神楽の前に行われる儀式が始まっていた。
拝殿の前の地面に畳が敷かれ、そこにひとりの青年が正座して座っている。青色の裃を着て左肩ははだけて白い肌着が太陽の光で輝いていた。背の丈もあるほどの弓と一本の鏑矢が傍らに置かれている。
青年はゆっくりと弓と矢を手に取り立ち上がった。
弓を構える動作、そして矢をつがえる動作、ひとつひとつがとてもゆっくりと行われ、騒がしさがありながらも周囲の人はじっとひとりの青年を見つめている。
「そうだ! もっと時間をかけろ!」
そこにひときわ大きい声で叫ぶしゃがれた男性の声が聞こえてくる。声が聞こえてきた方に目をやるとカップ酒を片手に酔っ払いがやじを飛ばしていた。この儀式は男性が一本の矢を放つためだけに時間をかける。口で言うのは簡単だが、ひとつひとつの所作をゆっくり行うのは体力を使う。途中の不自然な姿勢でもバランスを崩してはいけないからだ。
そのため毎年青年団の体力のある若者が選ばれ、何日も練習してから儀式に臨む。だからこそ応援の声がかかることも多い。しかし、そこにいる男性は明らかにそのような意図はなかった。
神楽の前に不快なものを見てしまったな。忌子は目をそらして舞殿の方へと歩を進める。
「西側に向かって矢が放たれます。皆様注意してください」
境内に男性の声でアナウンスが流れいよいよ矢が放たれる瞬間が来るようだ。その瞬間だけでも目にしようと忌子も振り返る。
青年が矢を放つと、澄み切った青空に向かって鏑矢が飛んでいく。観客のどよめきとともに矢は生い茂った木の根元へと落ちていった。落ちた矢に向かって子どもたちが駆け寄っていく。
放たれた矢はご利益があると言われている。しかし、もっぱら矢は子どもたちの宝物争奪戦になり大人たちは遠巻きでほほ笑ましく眺めることが多い。
無事、神楽前の儀式が終わり一安心する。次は自分の番だ。毎年やっていることだが緊張する。忌子は舞殿へと上がる。少ししてから清司や雅楽の奏者も舞殿へと集まってきた。
「これから舞殿で神楽の奉納が行われます」
アナウンスの声を聞いて観客が拝殿前から忌子がいる舞殿へと集まりざわめきが大きくなってくる。
忌子は深呼吸して心を落ち着けた。周囲のざわめきが少しずつ意識の外へと押し出されていく。奏者が流す雅楽だけが聞こえてくる。忌子は舞台の下手側にしゃがみこみ上手に向かって頭を下げ、祈りの姿勢を取った。
上手側から神主姿の清司が刀を携えて忌子へと近づいてくる。きぬ擦れの音が近づき止まったのを確認して忌子は清司に向かって深々と頭を垂れた。
清司はさやから刀を取り出し高々とかかげる。そしてゆっくりと振り下ろし祝詞を唱えながら忌子の頭上で水平に刀を振った。そのまま刀を正面に構えると、ゆっくりとすり足をしながら清司は忌子の周囲を回り始める。時折、立ち止まり忌子の周りの空間を断ち切るかのように刀をゆっくりと振り下ろした。
忌子は頭を下げ続け清司が目の前に戻ってくるのを待ち続ける。その間も雅楽の音色しか聞こえない。
忌子の正面に立ち、清司が刀をさやへと収める。改めて深々と頭を垂れると清司は振り返り、上手側で腰を下ろした。忌子は立ち上がり舞台に置いてある舞鈴を手に取る。
手に取るときにいくつもの鈴がかすかに鳴った。舞台の中央へと戻り本殿がある正面を向く。観客に目をやると数十人の観客が忌子へ視線を注いでいる。後ろの方には美友紀たちの姿が目に入った。
秀俊の姿も目に入り来てくれたんだと思いほっとする反面、一瞬集中が途切れる。しかし手に持った舞鈴を振ることで意識はまた神楽へと戻っていった。舞鈴を振るたびに周りの空気が澄んでくるのがわかる。ひとつひとつの鈴から放たれる音が重なり合い、それが舞殿の隅々へと広がっていく。この音によって穢れが無くなった感覚が生まれた。その瞬間、忌子は深呼吸して神楽を始めた。
気がつくと観客からの拍手が届いていた。忌子は一礼して全員で舞殿から降りて社務所へと向かう。
「父様、どうでしたか?」
開口一番、清司へ今の神楽に対する感想を聞いてみた。
「まだまだだ。神楽を始めるのが一瞬遅れただろう。なににうつつを抜かしていたか知らないが、そんなんじゃ龍神様は満足されない。もっと龍神様のことを知るために歴史を勉強しなさい」
清司から神楽を評価する言葉はなにひとつなかった。自分にとってはいつになく集中してできた神楽だと思っていたのに。いつものことではあるが、これでもだめなのかという落胆が心の中に広がっていく。
「申し訳ありません」
頭を下げて清司から離れていく。忌子にとっては今日一番の仕事は終わったが、それでも祭りの日にやることはいくつもある。
神楽が終わるまでは他の人たちがやってくれていただけだ。とりあえずは一番人手がいるであろう授与所へと向かう。
「あっ忌子!」
授与所へと向かう道すがら美友紀が声をかけてきた。ちゃんと名前で呼んでくれたことに安心する。
「みんな、ありがとう見に来てくれて」
「なんか厳かというか気が引き締まるよな」
忌子が礼を述べると晴雄がこれみよがしに姿勢を正して褒めてくれる。
「そうだね」
秀俊も軽く笑いながらうなずく。その笑顔を見て先ほどの沈んでいた気持ちが少し晴れていった。
「ありがとう。神様を楽しませるための舞いなんだけど、そう言ってくれる人も多いんだ」
「そっか。神楽って字は、そこから来てるのか」
美友紀が納得したようにうなずく。
「気が引き締まるんなら、あんたはもっと神社に通った方がいいんじゃない」
「それ、どういう意味だよ」
美友紀と晴雄がつっこみをしながら笑いあっている。
「八乙女さん。そういえば神主さんが神楽の前にしゃべっていた言葉って何?」
ふたりを横目に秀俊が忌子に質問する。
「えっと、祝詞のことかな」
「あれが祝詞なのか。それってお祈りのときに使ったりもするよね?」
「そうだね。お祓いのときに唱えたり神様に奏上するお言葉だから」
「ありがとう。最近、似たような言葉を聞いたからちょっと気になって」
「そんな。気にしないで」
神社にいないと祝詞を聞く機会なんてそうそうない。だから忌子はどこで聞いたか少し気になった。しかしすぐに彼の家が神式だったことを思い出す。それなら祝詞を聞くこともあるだろう。
頭の中で納得していると突然、悲鳴が拝殿の方から聞こえてきた。