第三十二話 呪いを解く
神楽で呪いを解く。それは伝承の再現となる行動。それを私ができるのだろうか。
「そんなんじゃ龍神様は満足されない」
祭りの際に神楽を舞ったときの清司の言葉が亡霊のようによみがえる。もし神楽で龍神を満足させられなかったら、どうなってしまうのだろう。嫁ぐこともなく、楽しませることもできない。そのときに買う龍神の怒りとはどれほどなのだろう。
現状ですら絶望的だ。それよりひどい状況を考えると忌子の背筋に冷たいものが流れる。
それでも。
忌子は決意を固めて外に出る。どしゃぶりの雨音が耳に入ってきた。湿った空気が体に触れ、雨による土の匂いが鼻腔をつく。
呪いを解く。縁を結んでいる人たちの呪われた姿を見たくない。呪いを避けるために自分が生まれ育った街を離れて過ごすなんてしたくない。
灰色の雲が一瞬白く光り、わずかに遅れて耳をつんざくような雷鳴が響き渡る。その轟音に思わず耳をふさぐ。
あたりを見渡すが、すでに秀俊の姿は見当たらなかった。忌子は覚悟を決めて土砂降りの雨の中へ飛び出す。向かう場所はすでに決めていた。龍神に神楽を奉納する。そのための場所へ。
走りながら境内を進み、鳥居をくぐり抜ける。参道を通り、階段を一気に駆け下りる。
階段の途中で踏み込んだ足が滑る。景色が上下へと反転して、体のあちこちで衝撃を受ける。痛みで思わず階段の下でうずくまってしまう。しかしなんとか痛みを我慢して立ち上がった。
自分の体を確認すると巫女装束が泥まみれになっていた。袖から覗く両手も土で汚れ擦り傷ができている。なんどか足踏みをすると、体に痛みは走るが幸い足をくじいていないようだった。
忌子は龍神川へと向かって駆け出していった。
龍神川にたどり着く頃にはすでに全身はずぶ濡れになっていた。忌子は肩で息をしながらも龍神川を渡る橋の上へと歩を進めていく。この雨のせいで周囲には誰もいない。
橋の中央で深呼吸をしながら呼吸を整えていく。徐々に意識が降りしきる雨の音へと向かっていく。そして雨によって増水した強く荒々しい川の流れの音へと。
ここに龍神がいる。忌子は確信した。この濁流が鳴らす轟音は怒りの音なのだろう。
意識を自分の頭の中へと切り替えていく。徐々に雨の音、川の音が小さくなっていった。そして少しずつ雅楽が頭の中で鳴り響いていく。その音を頼りに忌子は橋の上で神楽を舞い始めた。
子どもの頃から何年も舞ってきた神楽。一度も清司に認められることのなかった神楽。それを奉納するのは神への冒涜なのかも知れない。それでも呪いを解きたい。
もし龍神を満足させられなかったとしても、その罰を受けることで生贄になり呪いが終わるのであれば。
それで構わない。大切な人たちは元に戻るのだから。
自分の大切な人が、呪いのせいで本意ではない行動を取ってしまっていること。そのせいで彼らを信じきれなかったこと。自分が傷ついたことに必死で周りに目を向けられなかったこと。これまでの思いを舞いに込める。
龍神様。こんな自分勝手な思いを抱きながら舞う神楽なんて見たくないかもしれません。でも、これが偽らざる気持ちです。
雨音が戻ってくる。川の濁流は変わらず轟音を鳴り響かせている。そのとき目の前が真っ白になり忌子の意識は途切れた。